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商品詳細

福島出身の満洲医科大学予科生S君が遺した書簡集「満洲通信」■ 昭和3〜6年

販売価格: 220,000円(税込)
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【商品名】 満洲医科大学予科生S君が遺した書簡集
【刊行年】 昭和3〜6年
【備考・コメント】
B5変横判、厚さ5cm程、紐綴。
「S君」は福島県福島市出身。満洲医科大学予科生として奉天の満洲医大啓明寮に寄宿しながら勉学に励み、弓道部員としても優れた活躍をしていたが、同校予科三年生時に病に倒れ帰郷。故郷で一年余りの闘病生活を送った末、昭和6年6月に逝去した。享年21歳。
本品は、S君の死後に遺族が作成したものと思われ、昭和3年4月の同校入学より病の為に帰郷する直前の書簡類約130通がほぼ時系列に沿って綴じられている。
後半部には、S君亡き後に友人・恩師等が遺族に宛てた書簡類8通が収められている。
手製の厚紙表紙には、「満洲通信 昭和三年四月起」と名字と共に墨書されており、巻頭に同校入学以来のS君の通信中の主なものを集録した旨が「はしがき」として記されている。
以下、明細。

■S君自筆書簡37通・自筆葉書87通
ペン書。書簡は便箋計115枚。全て封筒欠。一部の書簡は「満州医科大学用箋」を使用している。
葉書は何れも余白無く記されており、数通を除き「奉天」の地から投函。葉書87通の内20通は絵葉書を使用しており、「満洲医大啓明寮」発行の絵葉書2通を含む。
書簡及び葉書の宛先は、S君の母校(福島中学)の恩師N校長宛の3通と友人宛の2通以外は、全てS君の家族(両親・妹・弟)宛。
何れも美麗な読み易い筆跡で、当地の様子や消息等が細やかに綴られている。「張作霖爆殺事件」時の当地の様子を伝える数通や、便箋5枚にわたって綴られた昭和3年の回顧文を含む。

●“…(前略)当地は連日好天気で昨日あたりから夏服を着用致しました。一昨日は非常なる風でそれこそ黄塵天を覆ひ実際太陽が見えませんでした。先日の如き雨が降って来た所がそれに泥が混って降って来ました。当地もだんだん我が軍隊がやって来る様になりました。一昨日朝鮮から来たのです。当地の新聞紙が報ずる処に依れば在奉邦人の在郷軍人・医大・教専・中学等よりなる義勇兵を組織すると云ふことです。奉天城内の支那人の東北大学では排日を始めました。然しこの附属地ではこんなことはありません。内地から来る人々(修学旅行に来る中学生)に会ふと矢張何となく懐かしい様な気がします。二十四日から旅行で旅順に行きます。何れまた左様なら。”
(昭和3年5月22日消印 恩師N 校長宛葉書より)

●“…(前略)去る四日午前五時半 私にも感じましたが一大音響と共に張作霖の乗れる汽車は爆破されました。放課後其現場を見に行きましたが、丁度我が満鉄線(長春行)が上を通り、京奉線(支那経営北京奉天間)が其下を通って居る所です。例へば福飯電車が信夫山の所を通る所に国鉄が其下を通って居るでせう。あれが何れも広軌の複線にしたばかりです。それで張作霖の汽車が其処に来た所に南軍の便衣隊(支那人の普通の服装をして居る)が爆弾を投げたのらしいです。勿論張作霖の汽車は壊れましたが、我が満鉄線の鉄橋もあの大きな奴が下に落ちて居ました。レールは飴の様に。それから汽車は一つ装甲車(鋼鉄張りの、日本では省線京浜電車にあります)でしたがそれの中は目茶苦茶になってゐました。多分余程強い爆弾だったのでせう。他の車は皆上が焼けて車台と車輪のみ残り居るのみでした。私共が行った時は午後三時頃でしたので屍体は見られませんでした(正午頃までは見られた由)。只先の装甲車の中の布片、硝子等には無数の血痕が附着して居ました。現場は我が兵士、警官等で取締られて居ました。結局に於て大損害を蒙ったのは満鉄です。未だ内地のこの記事を書いた新聞を見ませんが兎に角大騒ぎでした。…(後略)”
(昭和3年6月6日付 家族宛の書簡より) 

●“…(前略)満洲の秋、とても内地では味はゝれない所があります。殊に我々の如く故郷遠く離れ自己の目的の為に永く住まんとする人々に取っては云ふに云はれぬ感がします。春の黄塵万丈に較べ秋は本当に澄み切って居ます。…(中略)二十二日午後十時頃奉天を出発して日仏オリムピック見学、引続き関東州外対州内競技大会を見る可く修学旅行へ参ります。想へば、去る四月、胸にも溢るるが如き喜びと希望に満ちて満洲への第一歩を印したあの大連、恐らく私の終世忘るゝ事の出来ぬ思ひ出の種となることでせう。生れて始めての遊学、然も帝国内に非らざる異郷の地の天地にて学ばんとするための門出となった大連、香港丸の甲板上より遥かに関東州の山々を見た時の喜び、今迄見も知らぬ人々と一緒に狭い船室に蹲って居た私が愈々目的とする満洲についたのだと思ふと居ても立っても居られず朝五時頃から甲板に出てまだかゝと眺めて居ました。今考えると感慨無量の感に打たれます。その大連指して今度は堂々満洲医大予科生としての私で再び乗り込まんとするのです。私の胸中は定めし父上、母上、或は私の兄弟の外誰も察することは出来ぬだろうと思ひます。恰も、凱旋の如き感がするだろうと今から待ちにゝって居ます。人生は実に夢の様ですね。つくづく今になって考へる様になりました。…(後略)”
(昭和3年9月17日付 父及び家族宛の書簡より)

●“馬賊の満洲、満洲の中央奉天にも馬賊の出没頻々。四月一日は朝、朝鮮銀行預金者(支那人)が金を受取りたる所を、夕には銭荘へ押入り奉天票一万円(奉票四千五百円が日本の百円)を奪取。直ぐに日本警官に追跡され、医大附属院を去る五百米の街路に六名順次に打倒された光景は、満洲ならではと思はれ、同時に奉天警官の身辺も甚だ危険なることを思はせました。馬賊と云っても日本の強盗です。ピストル持参の奴を云ひます。”
(昭和4年4月3日消印 父宛の葉書より)

■電報13通
知人等からS君の入学祝いや、S君が父親宛に送信したもの。

■S君の級友より遺族宛書簡3通
墨書もしくはペン書。差出人=同校予科級友で親友のO君1通(巻紙1枚100行の長文)、中学時代の同級生T君とS君各1通(便箋2枚と巻紙1枚32行)。

■S君の恩師等より遺族宛書簡4通・葉書1通
墨書・ペン書。差出人=福島高商恩師Y教授1通(巻紙1枚25行)、福島中学恩師N校長1通(巻紙1枚40行)、父の知人Y氏1通巻紙1枚61行)、主治医T氏1通(巻紙1枚63行)、同校弓道部関係者某氏葉書1通(12行・奉天消印)。

★上記の他に、S君が記した「学資金所要額」等のメモ6枚、S君の告別式通知葉書1通及告別式後の礼状1通(共に印刷)、S君の世話人(在満洲)からの来信2通、父親の仕事関係者と見られる名刺約40枚が貼込まれている。

◆一部の書簡切取、台紙数枚本体から外れ有。綴紐が切れていた為新しい黒紐に交換済。
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