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ホーム旅行/乗り物/娯楽/スポーツある日本郵船甲板部員氏 「自筆日記」 ほか肉筆資料一括 ■ 昭和26〜52年
商品詳細

ある日本郵船甲板部員氏 「自筆日記」 ほか肉筆資料一括 ■ 昭和26〜52年

販売価格: 198,000円 (税込)
数量:
【商品名】 ある日本郵船甲板部員氏
       「自筆日記」 ほか肉筆資料一括
【執筆年】 昭和26〜52年
【状態】 経年相応の劣化有
【備考・コメント】
◆ 日記は高浜海員養成所の入試を控える16才時 (昭和26年) から、働き盛りの42才時 (昭和52年) までの間を断続的に綴った13冊一括。多くがB5判のノートにペンで書かれている。
入社当初は船員として期待に胸ふくらませる記述が目立つが、時を経る毎に 「海の上」 で一年の大半を過さなければならない事の寂しさや孤独・苦悩といった悲観的な記述が頻出する。そのためか、39才頃からは現場を離れて広報室に勤務している。
日記としては全体的に概ね読みやすい字で綴られており、総頁数は2000近い。筆者は愛妻家で読書好き。
他にスケジュール帳7冊 (日々の出来事を綴った短文入) 、雑記帳1冊、当直作業日誌1冊、養成所時代の勉強ノート3冊を含む。全て積上げると厚さ計23cm。

■ “晴れの入所式だった。憧れの高浜に三ヶ月間船員として養成していただく事になった。身体検査、転出証明書、食費代等のさし出しをし、教官からいろいろの話しがあった。自分たちは四期生として三ヶ月間の高浜で生活する事になったのである。講話の調印、貿易の拡大、船舶の増大にともなり船員の必要がそれ以上大切になった。先生は 「船員は外交官である」 ことを忘れないと言った。努力と苦学を重ね、立派な船員になろうと、今日又くりかえし胸に心にきざみこんだのである。入海 (高浜養成所のうら) をじーっと見つめるとなにとも言えない気がし、又今日からここで生活するのだと思うとうれしさがこみ上げて来た。身に心にあたたかいものを感じた。”
(昭和26年9月10日)

■ “郵船会社でも本船程楽な船はないと云う。外航船へ行けば仕事仕事でもって、おいまはされるらしい。早く外航船へ乗船し苦労して一人前のセイラーになりたいものだ。真面目に勉強し仕事も一生懸命やる決心である。今本船で一番月給の安いのは自分である。五十五人の乗組の一番安い月給である。残念でたまらない。本船は今朝八時シフト直ぐに石炭を積始め四番ハッチは終った。本船明日十二時出帆予定である。”
(昭和27年10月1日)

■ “冬期のインド洋は静かで有る。しかし無風状態にある時は部屋に居ると一人でに汗が流れ出し其の暑さは言語同断である。風向が真横に変って船窓より吹き込む時はこの世の春でベッドに長々と横たわり読書出来る。昨夜は暑くて寝られず困った。確か二三度起きて夜中の甲板に出で涼む。今日はセイラー三人で作業を行う。船員となり入社してここに四年余を向えやっと中間どこのセイラーになりつつある。其の日其の日も入社当時と比べれば雲泥の差が有る。この頃は楽なものである。四時終了。夕食後入浴。今夜は涼しい風が吹き込み休めるだろうと思う。読書は 『生きている日本史』 。中々面白くて為になる本だ。”
(昭和31年3月22日)

■ “何となく面白くない日々が続く。団体生活の為の感情問題が原因と思う。甲板部十五人、一人一人性質、思想が違う上に環境からして特殊であり階級も民主主義とは云え、給料の差から付けて上下の感情が悪ければ其の船内は面白くないに決って居る。本船にも一番古株となり長く乗り過ぎた感がある。一年たったら早々に下船する事も一つの手である。八時-十二時ワッチから今日午後より四時-八時ワッチの交代となる。毎晩ウィスキーか紅茶をがぶ呑みするので胃を完全に崩してしまった。今後少し惜しむ事にしよう。明日、又赤道祭でビリヤード、マージャン大会をやるそうである。”
(昭和31年12月23日)

■ “ … (前略) 夕食後、三人の散髪をやってやる。私とコーターマスターに一人散髪をするだけで他に居らずいやでも仕方無い。私がやらねばならない。最近ふと考えていったい自分は何の為に生きているのか何の為に生活して行くのか迷ってしまう時がある。ふと非常に淋しくなる時がある。自分の将来を考えて 「うんざり」 する時もある。苦しい事である。何故かわからない。 「先」 の見えた自己の人生に悲観するのか。何故夢も無い船に暗い海に十何昼夜も何ヶ月も走り続けねばならないのか。二十四歳にして夢が消えた様な苦しさ悲しさが胸にこみ上げて来る。其んな暗い北太平洋の航海中、強く生きて行かねばならない自己の人生に将来にもっともっと希望と理想を持たねばならぬ。この寂しさは故郷に対する懐かしさ郷愁によるものかも知れない。愛しいF子さんや懐かしい父母兄弟達にも会えず、年中海を走り続ける其れも追い廻される様に。もし本当の人生の幸福を見い出し、考えるならば当然船乗り人生は失格するのではないか。皆が皆本当に海を船を愛して乗っているのだろうか。両親と妻と子供に別れて幸福な人生であると言い切れる人が居るのかしら。最近の私は色々と考え迷い疑問を持つ様になって来た。以前には無い事である。特殊な職業船乗りと言う立場が環境が非常に苦しくなって来た。故郷に彼女に未練を持って苦しむ様では私も大部地に落ちた。悲しいと思う。二十代の青春に、若さを海に賭けたのがいけなかったのか。陸人達の四季を通じての楽しみも一切から遠ざかって何の人生かわからない。人並の楽しみも味えない船乗り達である。一番重要な国家の一部門をあずかっているのであるが、余りにも人からかけ離れた悲しい職業である。私は其れを乗り切らねばならないのだ。夕食後は直ぐ暗くなるので風呂に入ると部屋に閉じこもって雑談やら読書、レコードをかける者、宮城道雄の琴で 「六段」 と何とか日本調物は身にしみて良いと思う。 … (後略) ”
(昭和34年12月2日)

■ “最近は起されなくても六時前になると自然目が覚める。船乗りの特に甲板部員の悲しい習性かも知れない。一度若草を枕に澄んだ空の下で花の香をかぎながらぐっすり眠ってみたいと思う。食堂で朝のコーヒーを飲んでいると、昨夜一時頃可愛い子供四人連れの夫婦の夫が心臓麻痺で死んだそうである。昨日は子供相手にデッキでビリヤードをやっていてゼノヴァでは元気良く子供を連れて上陸していた。其の御客が今朝はもう天国に向って昇死していたとは実際思えない。まだ九歳かそこらの子供を筆頭に四人も残し死んで行ったその人はどんな気持ちであろうか…もっとも心臓麻痺は眠る如く死んでしまうと言うが、人の生命の儚さを淋しく悲しく身にしみて思う。 「人の生命」 … インド洋での機関部員の自殺と往航の一ヶ月もたたぬ間に二人が死んで何故か本当の様な気がしない。又他人事の様な気がしている。でも一応は変な気持にならざるを得ない。意気消沈と云う所だ。後に残った婦人や子供達は今後どうする事だろう。他国の人ではあるが 「幸」 に成長してもらいたいものだ。四日には本国に着くのに本当に可哀想である … (後略) ”
(昭和36年4月1日)

■ “インド洋へ出て、セイロン島の沖を行く。もうありきたりの航海で有る。このコースを何辺通れば家庭の楽しい 「いこい」 の場に帰れるのか、そんな事を考えると悲しい気持ちになる。毎日妻子の顔を見て生活出来ないものか。愛する妻と子の家庭に居ることが一番仕合せであると思う。この所曇天の天気が続く。幸い涼しい毎日で助かるが。後、日本まで十日間、今は川崎に着いてF子とS君に会えるのが唯一の楽しみ。夕食後マージャン後にビールを飲み休む。”
「昭和38年11月27日」

■ “何年振りかの基隆である。余り変わっていない。昔と違って愛妻と可愛い子供を持ったせいか上陸して遊ぼうと言う気にはなれず、案外歳のせいかなと思ったりする。台湾は世界中で色々が一番安い所と聞く。しかし遊ぶ気も起らない。午前中F子へ手紙を書き出すと、十二時より十六時まで当直。港の入口に一番近いので少し風があると直ぐうねりが入り緊留索に影響するので見廻りも大変である。当直交代時Iさんが買物から帰って来て楠の彫刻を見せるので見ると、大きな見事な 「わし」 の彫刻であり、私も直ぐほしくなって追加に五百円 (台湾金) 会計さんから借用すると、夕食をたべると出掛けて久し振りの基隆の街を歩き、さんざん店でねばって選び七百円 (六千五百円) で買ってくる。少し高いと思うけれど前、興津丸ではS君が生れた時に北海道で熊の彫刻を買ったし、今度は三月末に二番目の子供が生まれる予定だから其の記念にと一番良い奴を買う事にする。子供の為やF子の為なら一万や二万の金を出してもこれは良いと思う物を買ってやりたい。ハイヤーも二十円で案外安く (二百二十円くらい) バナナを買って帰船する。十九時から荷役があり、労務者も多勢来船し、ようやく活気が出て来た。 「わし」 の彫刻をテーブルに据え皆と眺めては批評し、一人で眺めては今度生れてくる赤ちゃんを想像して見る。無駄金を使ったような妙な気持であるが、何十年も残る品物ならば悪くはあるまい。もう少し大きい奴をほしいと思うけれど出来れば次の航海、基隆に寄った時、他の奴をさがして見たい。”
(昭和41年1月4日)

■ “デンマークのコペンハーゲンに向って荒天の北海を北上。私にとって二十年間の船員生活で有りながら初めての北欧行で有り、目で見る楽しみがあるのだが何しろ十一月も末の冬に入る北欧であるので天候は悪くなる一方であり現に本船も昨日アントワープを出帆してから今までにない荒天に会ってさすがに北の海の恐ろしさを知らされる。 「勤労感謝の日」 であり、祭日ではあるけれど荒海の上を走っている以上当直有りで常日と変らず。W当直ではS氏と組み日中のシングル当直では二時間ずつ立つ事にする。うわさによるのか、真実なのか、本船の帰国の最初の港が小樽という話しがあって、先日手紙でF子や子供達に正月は横浜で会えると喜ばしただけに胸に不安なものが残って本社の配船の決定となれば仕方ないことだが、我々乗組員は折角の期待を面白くないものにさせられるわけである。腹の立つことであるけれど大きな力の壁には私一人の不平、不満などどうしようもないないのである。 … (後略) ”
(昭和46年11月23日)

■ “昭和51年も早暮れ去らんとし、この一年間を顧みれば本当に良くやって来たと思う。編集の仕事は常に先をキャッチし、斬新な心掛けを持っていなければならない。それだけに気を使い大変である。勉強は当然必要であるが、私にはその余裕はなかった。ただガムシャラに飛び回って来ただけである。それで良かったと思う。十二月一日でもって、広報室の生活が三年。編集の仕事は三年もやれば疲れもするに、十分であると私は思う。そろそろ現場の海へ戻してほしいと思うが、この一年で余りにも乗る船の少なくなったのも事実。果して、これから定年まで船の生活が続けられるか疑問でもある。経済面を見ると少なくとも陸よりも船の方がまだ多いと思われるから。この三年間で貯金をなくし、F子には内職で頑張ってもらい、F子の 「内助の功」 によってなんとか切り抜けて来られた家庭生活。それも限度があるから。とにかく一日も早く船の現場に戻るべきである。 … (後略) ”
(昭和51年暮れ)
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