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ホーム戦争の周辺仮題) 戦時下・占領下の乙女群像 ■ 昭14年4月頃〜昭22年4月
商品詳細

仮題) 戦時下・占領下の乙女群像 ■ 昭14年4月頃〜昭22年4月

【商品名】 仮題) 戦時下・占領下の乙女群像
【執筆時期】 昭14年4月頃〜昭22年4月
【状態】 経年相応の劣化有
【備考・コメント】
宮城県栗原郡出身・T嬢旧蔵。T嬢は昭和15年 (18歳) に地元の若柳高等女学校を卒業。その後女子専門学校に通う為上京し、昭和18年頃まで東京市荒川区三河島町に在住。昭和18年4月頃より約一年間、名寄女子職業専門学校教員として北海道名寄町で過ごす。昭和19年春頃から翌年8月半ばまでは埼玉県の本庄家政高等女学校教員を務めるが、終戦時に解職され帰郷。
本資料はT嬢の自筆日記5冊、創作ノート12冊、友人からの書簡類約450通ほか。以下概要。

■ 自筆日記5冊
昭和15年1月1日〜2月29日、昭和19年12月14日〜20年7月19日、昭和20年9月5日〜10月28日、昭和21年4月12日〜9月19日、昭和22年1月5日〜4月29日の間の5冊。
各20〜40P程。A5判ノートにペンもしくは鉛筆書。『修養日記』 と題された昭和15年の日記のみほぼ毎日、他の日記は気の向くままに認めている。
●“栗山の姉の所へ行く。下十條から上野まで見渡す限り焼野原になっている事に驚く。煤けた樹々がぽつんぽつんと肌そのままをさらけ出して立っている姿も外殻だけが残ったコン戦場だとの思いがひしひしと迫ってくる。だが此れから日本が勝つのだと言ふ深刻さに身がしまる。空爆の跡に上る細々とした夕餉の煙。罹災されて尚力強く土を守る尊い煙。御骨を抱いて罹災された挺身隊の群。総てが夢からさめた様な実在感のみである。午後姉と共に荷物を持ち埼玉本庄に来る。”
(昭和20年4月18日)
●“古里へ帰ってから早いこともう二週間以上になる。今日は三十日御盆とか。昔で云へば七月の最後の御盆になるのであらう。名残の送火が外に出て見るとチラチラしている。敗戦を知らぬ小供達の歌声も何故か淋しくきこえて来る。解職の便りを戴いてから考へる事もなく過ごしてしまった一日一日が何かイライラと私の心をおそって来る。今日も両親の心に打解けがたく憂々と過ごしてしま った。不孝なる者と言へば私の事を言ふのであらう。生れ出でて何が為に今迄の生活をしたのか。考へれば自己の為にと言ふ以外は言葉を知らぬであらう。そして今は父母になすべき務さえ出来ぬ悲しい存在に置かれてしまったのである。悲劇を作り自己を苦しめ心を改むる事が出来たならそれは私の幸である。だが第二の誕生に与へられた私の責任は一体何なのであるか。私はそれをはっきり掴む事が出来ぬ位愚かな存在なのだ。…”
(昭和20年9月5日)

■ 詩などを綴った創作ノート12冊
昭和14年4月頃 (17歳) 〜20年5月12日 (23歳) まで。四六判程のノートにペン書。各17〜102P。1冊ページ外れ有。

◆ 以下に挙げる書簡類は全てT嬢宛。手製の表紙が添えられ、それぞれ紐で纏められている。大半の書簡は便箋のみ、封筒は極一部に付いている。

■ 妹・瑞子からの書簡類綴1冊
昭和15年〜20年7月頃。書簡23通・葉書10枚・封筒5枚。書簡は可愛らしい便箋を使用し、各2〜4枚程。

■ 若柳高等女学校の友人達からの書簡綴1冊
表紙の裏に 「少女時代 若高女の友乃便り 上京せし私へのなぐさめの文」 とある。
同校卒業後の昭和15〜18年頃。書簡53通、封筒7枚。
●“…四年間の長いやうで短い月日は聖い思ひ出となって、なつかしく私達の胸に甦って来ます。百人の皆さんは楽しい希望を持って卒業した事でせう。でもTちゃんなんかは上級学校に…。と思うと羨しくて仕方がありませんけれども振り返って自分の姿を見つめる時…しづかに頭を過るは上級学校に入って出世をするのも、又家庭に入って良妻賢母となる事も道は同じで国の為と思う事です。そこまで考へるまでは相当の年月を要しました。今日も分散会に行って新な涙を流して来ました。でも運命はとても皮肉なものね。そして神様だけが知っていらっしゃるのね。私の結婚は親によって定められ、そして、自分に来たものです。そして自分が結婚すると返事をしたのは、非常時局を考へ、そして相手の家の事を考へ、そして最後に親あるものの有難さを知って、自分は相当の覚悟をして、最後に 「ハイ」 と言ったのです。こうなった以上は、運を天にまかせ、自分の進むべき道を、公明正大に堂々と突進する覚悟です。女学校生活を最後の思ひ出として、実社会に勇猛突進して行きます。…”
(昭和15年頃 修子からの書簡より)

■ 裕子からの書簡類綴1冊
手製の遊び紙の裏に 「昭和十五年より十七年までの裕とのいたづら 女専時代のなつかしき文」 とある。
ノートの切端等に綴られた短信も含め合計100通程。いずれも封筒は無く、おそらく直接手渡しされたもの。

■ 若柳高等女学校の友・いつ子からの書簡綴1冊
昭和15〜18年頃。合計57通、各便箋2〜4枚程。いずれも封筒は無し。

■ 若柳高等女学校の友・美佐子からの書簡類綴1冊
昭和15〜18年頃。書簡35通、葉書12枚、封筒1枚。

■ 女子専門学校の友人達からの書簡類綴1冊
昭和15〜17年頃。ノートの切端等に綴られた短信も含め書簡57通、葉書2枚、封筒3枚。

■ 親友・文枝からの書簡類綴2冊
1冊は女子専門学校の卒業を間近に控えた昭和17年のもの。ノートの切れ端に綴られた短信も含め全部で22通。いずれも封筒は無し。もう1冊は女子専門学校卒業後の来信で、昭和17年9月末頃〜21年11月23日。書簡78通、葉書3枚、封筒8枚。大半が便箋3枚以上の長文で、綴全体の厚さは5cm程。文枝は東京・荒川区在住。空襲で家を焼かれ愛知県に疎開。
●“T様懐かしいお便りを本当に有難うございました。久々で戴いたお手紙、それも終戦を迎へてから多分ふるさとへ帰っている事と思ひつつ、住所録を廃燼にした悲しさにお便りを出せずに居りました。本当に今日のお便りを待って居りました。何から書いてよいか全くこの混乱した心をも って答へ様もない程です。目まぐるしい歴史の意志が私達の生活に、これ程の悲劇を与へたのでせうか。生存競争といふより私には言葉が見当りません。こんな事を云ったら叱られるかも知れませんが…戦ひが終って見ると私達には全く戦争の目的が分かりませんの。昨日までの憂国の士が今は戦争犯罪者としての審判を享ける事実…勿論私達の知らない 「侵略行為」 の天罹かも知れませんけれど。敗者と勝者の対比が余りにも残酷です。
(中略) ふるさとへ帰れば其処に 「変りなき過去」 のもろもろの事どもが実在している友の生活が羨ましいと思ひました。私の過去は総て灰ですもの。女高時代のおもかげ云ったら辛うじてお免状だけですの。本当に貴女にはこの様な私の生活が想像して戴けるでせうか? …音楽と読書の間で暮らしてきた私にそれ等の総てが除かれる状態 … でも悩みに満ちた過去の日記や手紙の束までが失われた時、本当に名実共に再出発出来るのかも知れませんが。いくら負け惜しみでも 「さっぱりした」 等と簡単に云ふことは不可能ですの。…”
(昭和20年10月頃)

■ 交換日記帳1冊
菊変判ノート、52P。昭和15年、卒業までの数ヶ月にわたる友人・美佐との交換日記。

■ 友人達からの寄書帳1冊
菊変判ノート、44P。昭和15年、若柳高等女学校を卒業する際のもの。

◆ 以上、全て積み上げると厚さ22cm程の量。
「戦前-戦争-敗戦-占領」 と、激動の時代に青春期を過した乙女達の姿を浮き彫りにする一次資料。
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