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ホームその他高田英之助「自筆日記」四冊 ■ 昭和7〜11年
商品詳細

高田英之助「自筆日記」四冊 ■ 昭和7〜11年

【商品名】 高田英之助「自筆日記」四冊
【刊行年】 昭和7〜11年
【備考・コメント】
何れも第一書房から発行されたA5判の革装日記を使用。日記が認められた総頁数は1200を越え、各頁細かで丁寧な文字がびっしりと並ぶ。
一部の頁切取、1冊背に剥がれ有。 

★ 高田は東京日日新聞 (現・毎日新聞) 甲府支局の記者を経て、戦後は家業である高田鋳造所の専務に就任、やがて独立し福山にマルホ鋳造所を経営したがオイルショック時に廃業、晩年は福山市の文化振興に尽力した。
同郷の井伏鱒二と実兄の嘉助 (本名類三。高田鋳造所社主) が中学時代からの親友であったために、自身も幼いころから井伏とは親交が深く、氏の小説 『五三郎君に関する記』 『早春感傷記』 等は高田をモデルにしたものだという。また井伏を介して太宰治に二人目の妻となる石原美知子を紹介した人物として知られ、高田が病気療養中の時など太宰は数多くの手紙を送って励ましていたことが判っている。
日記の大半は高田が慶応大学在学中(22歳〜)のもの。太宰・伊馬春部と共に “井伏門下の三羽烏” と称されていた正にその時期と思われ、井伏や友人で後の劇作家・小山祐士らも度々登場。日記中で自らを放蕩病と呼ぶだけあって、カフェーに頻繁に通い、色恋沙汰も数知れず、相当な “モボ” であったことが窺える。
女学生の様な可愛らしい読みやすい字で、詳細に、そして赤裸々に日常を綴った本書は、1930年代のモダン都市に生きる一文学青年の苦悩と生態を克明に記録した純然たる私小説である、と断言しよう。               


● ある日の日記を以下に抜粋する ●

“荻くぼへ行く。井伏氏は外出、奥さんとひなちゃんだけ留守居してられた。茶菓の饗応をうけいろいろ話す。散歩がてら津島君 (風船舎注:修治。太宰治の本名) の下宿を訪ねるつもりで一緒に出たが途中奥さんとは別れて私一人行く。飛鳥といふ家は内からかぎがかけられていて誰もいない気はいだったので空しく引きかへす。そして井伏氏の奥さんとテニスコート辺りに散歩に出る。再び家にかへっておすしなど御馳走になり駄べる。新宿へ出るつもりで夕刻辞し去りそれでも最一度と思ひ飛鳥に廻り外から声をかけてみるとやがて戸が開いた。たづねてみると津島君も井伏氏もいるといふこと。二階に上って二人が将棋の済むのをしばらく待つ。直ぐ井伏氏は私を伴って外に出た。近くの銭湯に一しょに行く。出てから井伏氏の公衆電話かけるのを待つ。再三井伏氏宅にに引きかへし四の五の云ひえぬ間に氏の原稿の浄書を手伝はされる。『聴講生ブーシンのこと』 三十枚の予定のところすでに書上げられてる十六七枚の下書を私が浄書して二十枚に引き延ばす。雑誌現代に明早朝までに持って行くべき原稿だ。書きながらあひまあひまに話す。一と通り疲れて夜ふけのかうした牢屋にも等しき独り居の場合そばに人がついていて何彼と言葉交はすのが氏には或種の慰めにもなるのか知ら。頑張って二十枚までやっと書きのばしたら二時近くなった。つかまったが因果の私の目が最早や充血して赤くなっていると時をりお茶や飯なぞ持運んでくる奥さんが同情してさう云ってくださる。ぢっと書いていていらいらしてくると 「お茶を持って来い」 とか 「水」 とか奥さんの部屋に向ってど鳴りつける氏も氏だがその都度おちおち眠ってもいらねない奥さんを思へば同情に堪えられない。女房って小間使ひみたいなものだと云ひ云ひする氏はその蔭でどのやうに奥さんを女として可愛ってあげているのだらうか、それがなかったら人間として許すべからざる行為のやうにも思へるのだった。作家の執筆当時はまるで家庭を戦場と化する。そんな氏の真剣な態度には私も頭が垂れる。が何しろこれではがはがたまならい。二時すぎ私は奥さんに床をとって貰って氏の机の横で寝る。原稿が結局二十二枚以上すすまなかった夢を見たりした。いよいよ書上げて二十八枚になった原稿を閉じてぱたんと机の上に延ばし咳一咳してすうっと起上った氏が荒々しく襖を開け奥さんの部屋に入って 「朝飯だ、朝飯の支度をしてくれ」 とせかせかあせらしている気はいを私は夢心地で聞いていた。朝のしぱしぱした空気を吸ひ庭木の間を逍遙している氏がやがて上ってきて私を起こした。洗面を済ませ一しょに朝飯をしたため外に出たらまだ八時になっていない。氏は小石川音羽町へ私は渋谷へ二日の築地座を約して電車の中で別れる。”
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