【商品名】 「マンカヤン銅山」に派遣された某社員旧蔵アルバム+引揚後資料綴
【刊行年】 昭和17年頃/昭和22年
【備考・コメント】
★旧蔵者は三井鉱山株式会社三池鉱業所に勤務していた邦人男性「O氏」。氏は昭和17年7月にフィリピンマウンテン州にある日本軍管理の「マンカヤン銅山」へ派遣され、庶務係を務めていた。
現地では昭和19年4月頃より急速に戦況が悪化し、昭和20年4月にマンカヤン鉱業所の日本人全員引揚を決行。41名の死者を出した凄惨極まる退避の途上、生き延びた従業員はトクカンの山中で終戦を迎えた。
氏は米軍の捕虜収容所で労役に服した後、昭和21年12月に帰国。マンカヤン鉱業所の日本人引揚は昭和22年1月に完了し、同鉱業所従業員の互助懇親を目的として「マンカヤン会」が結成された。氏は同会三池支部長として、派遣員の給与及諸手当、遺骨整理、戦死確認手続、現地採用者の就職問題、終戦前帰国者の問題等の解決に奔走した。
※以下に本品の明細を記す。
■アルバム一冊
B5横判 47P ハード装 昭和17年頃
生写真約90枚を貼込んだプライベートアルバム。背には「マンカヤン外 昭和十七年頃」と書かれた手製ラベルが糊付されている。30枚程の写真に自筆のキャプションが添えられているが、黒台紙に鉛筆で記されている為やや判読しづらい。
主な被写体は、マンカヤン鉱業所の事務所・合宿所・客舎・農園などの施設前で撮った同僚や上司(山下諭吉所長含む)だが、事務所内や屋外での労働風景、同鉱業所操業開始記念式典(昭和17年1月20日)、作家・石坂洋次郎来山時、先住民イゴロット族のダンス、現地風景等の写真も収められている。
半数程の写真に「憲兵検閲済」の印が捺されており、日本国内で撮影されたものと思しき写真を一部含む。
アルバム外装に補修及び少イタミ有。
●昭和27年に撮影された同会々員集合写真数枚を含むO氏作成のプライベートアルバム二冊を附す。
■「マンカヤン会」資料綴一冊
B5判 約280枚(厚さ5cm) 紐綴 昭和22年
「第一回マンカヤン打合会」「マンカヤン引揚者会合」「第一回比島引揚者打合会」「マンカヤン会報」「マンカヤン鉱業所派遣員に対する諸給與精算状況報告」「引揚従業員に対する終戦後給與精算の件」「未決定分諸給與支払予算表」「比島鉱業所公傷手当追加補給報告」「派遣員戦死者名簿」「報告書(マンカヤン鉱業所給料未精算内訳・マンカヤン村ニ於テ飯米収買引当トシテ同鉱業所資材課ニ供出セル私物一覧表他掲載)」等の資料類や、同会委員や引揚従業員からの消息等の来信45通(封筒付書簡32通・葉書13通)、O氏自筆書簡3通、O氏自筆「戦死現認証明書」1枚、「昭和二十一年九月二十九日作成於カランバン二キャンプ」と表紙に記された肉筆名簿1 冊、電報・来電訳文・出電控20通、「殉職者慰霊祭」(10月29日於三池鉱業所宮原講堂)時のものと思しき生写真4枚等々を綴込んでいる。肉筆・孔版刷・カーボンコピー・タイプ印刷混在。
一部の資料にイタミ、重複綴有。
※以下は昭和22年2月17日付で三井砂川鉱業所T氏からO氏宛に送られた自筆書簡より抜粋
●“…(前略)長かった然も変転数知らぬ外地での生活の疲れも癒えぬ間に早やおつとめの御様子、薄暗い過ぎし日のキャムプでの起居を偲び、相変わらぬ御熱心振り蔭乍頭が下がる思ひが致します。運命の力の為すが儘、つらきお別れをして以来、はや、三月、皆懐かしの故国の土を踏み、温き肉親のもとに帰りついたのですが、書き替へられた歴史は、つめたい、むづかしい世の波となり、はげしい生活の蔭の淋しい世相となって吾々を待って居りました。乗り越えて来た外地での生活を思ふと決して吾々は負けては居られません。…(中略)
…四年振りでお正月の気分を味はひました。亡き戦友を偲びつつ、比島での思ひ出は、苦しかった事、亦楽しかったこと、何かに付けて生涯印象に残る事ばかりです。折にふれ、雨に濡れ炊いたカモンノに満腹を味はったトクカンの山の中、亡き友の墓標にさようならをして来たトクカンの山暗いキャムプ、楽しく語り合ひ、内地の山を思ひ出して居たあの薄暗いキャムプの生活を思ひ、しみじみと人の情を味はって居ります。一度お会ひして当時の物語をし度いものです。(後略)…”