【商品名】 大山久子「自筆書簡・葉書」一括
【刊行年】 昭和15〜22年
【状態】 経年相応の劣化有
【備考・コメント】
封書3通(便箋計6枚)、葉書9通(1通は絵葉書使用)の計12通一括。ペン書。何れも現・半七写真印刷工業株式会社の創設者・田中松太郎翁宛。
大山久子女史(1870‐1955)は、長州藩軍政主事・野村素介の長女。駐イタリア公使を務めた夫の大山綱介と共にローマに駐在していた時期に、ジャコモ・プッチーニと親交があった。プッチーニがオペラ『蝶々夫人』を作曲するにあたり、久子は何度も氏と会見をして、日本の音楽・風俗・習慣等を助言したという。大山夫妻の功績については、萩谷由喜子著『「蝶々夫人」と日露戦争-大山久子の知られざる生涯』(中央公論社刊)に詳述されている。
本品は久子が古稀を迎えて以降、隠居所(渋谷区穏田)→疎開地(鎌倉市稲村ヶ崎)→聖母の園(横浜市戸塚区)と移り住んだ激動の老年期のもの。
隠居所を売り払って早々に稲村ヶ崎へ疎開してきたのをひどく後悔している事、不慣れな地での自給自足生活の苦労、疎開して一年が経ちようやく住み慣れてきた地を捨てて更に奥地へ疎開するつもりは無い事、「聖母の園」の質素で慎ましい生活、初めて詠んだ短歌等々が、やや癖のある筆跡で余白無くびっしりと綴られている。
終戦後に入所した「聖母の園」はカトリック修道院付属の高齢者施設で、昭和30年2月17日に発生した同施設火災事件に巻き込まれ、久子は85歳で亡くなった。松太郎翁とは家族ぐるみの付き合いだったようだ。
翁に宛てた久子の長女「澤田美代子」の葉書3通、久子の長男「大山西一」(終戦後間もなく肺炎により逝去)の葉書通6通、西一の妻「大山壽恵子」の葉書1通を附す。