【商品名】 ある岐阜県人の半生を記録した「自筆日記」51冊
【執筆年】 大正15年〜昭和53年
【備考・コメント】
筆者は岐阜県多治見市で陶器用の絵具製造業を営む男性。
日記は大正15年〜昭和21年、24年〜53年の年度別に書かれた51冊で、大正15年時は28歳。
1日1頁、稀に中断期間はあるものの、ほぼ毎日記録している。年度や日によって文字が丁寧だったりやや雑だったりするが、概ね判読は可。
内向的な性格で卑下する記述が散見する。とはいえ、日記を半世紀間継続し、戦時下の空襲に怯える日々でも書き続けるその精神は並ではない。
半数ほどの日記に函付。昭和19年・20年・21年度に書かれた3冊は、筆者の息子が一部を記した別年度用の日記を中途から使用している。昭和21年1月1日〜2月8日までの日記切取、大正15年度と昭和17年度の日記の背補修、昭和8年度の日記に水シミ、各経年相応の劣化有。
★この大部な日記は、筆者の半生の記録であると共に、一市井人から見た一つの「昭和史」の記録でもある。
●“号外によれば犬養首相は数多の軍人の為に暗殺されたそうである 其の他警視庁日本銀行内務省等ダイナマイトを投げて爆破を行ったそうである 実に厭な世相であるけれ共金の力でなった政治家共が勝手に国政をもてあそぶのを知っていれば一度や二度はウンと頭をなぐってやりたい気もする 詳細は明日でなければわからないが愈々むつかしい世の中になったわけである 工場で一日中働いた一向に今月は絵具が売れないから閉口である”(昭和7年5月16日[月]晴天)
●“昨朝五時に帝都に於て岡田首相斉藤内大臣高橋大蔵大臣渡辺教育総監牧野前内大臣鈴木侍従長等が陸軍の青年将校に襲撃されて即死や重傷を負ふたそうである 日本空前の大兇変であると新聞は報じている 兎もあれえらい事をやったものである 何うなるものか知らぬけれ共世の中といふものは一つのところにじっとしているものではないらしい 絶えず動いているから水先案内する人は実に苦労な事であると思ふ 我々はあまりそうした事件には関係がなさそうであるけれ共商売の方の景気はあまりよくはなるまい”(昭和11年2月27日[木]晴天)
●“咽喉が未だ充分よくならぬので静養する割合に暖かなので楽である お昼のニュースの時日米戦が開始された事を始めて知った 海軍機が遠くハワイの真珠湾の軍港で敵軍艦を二隻撃沈其の他四五隻大破させグアムでは此又一隻の軍艦を沈めるし比島では百機近く打落しているし香港では十二三機の英機を焼いた又シンガポールでも夜間大爆撃を敢行して敵の被害甚大である 寿の戦勝ニュースで気もウロウロになり続いて御勅語があり首相の宣戦布告の発表で涙が出る程感激してしまふ 愈々時節到来で有史以来の国難で衿を緊め直さねばならぬ事になった”(昭和16年12月8日[月]晴天)
●“昨夜三時間許りねていられなかったので今日は何うにもからだが悪くってならなかった 空襲警報が鳴っても以前は大都市に決っていたのでねていたけれ共現在の状態は中小都市を敵はねらっているといふ世間の話であるから又事実四日市豊橋といった様な市街を焼払っているので近日中に多治見へも来襲がありはしないかといふ思ひで誰もがいるので警報が鳴れば必ず目が醒めた上到底ねてなんかいられる者ではない 午前拾時頃に敵機が各務原へ来襲したので工場でも退避をした兎に角普通の住宅にねられるのも長くはないと誰もが覚悟をしている 自分の生命も工場にいたんでは危険率が多いと思ふといって百姓をやる程の体力がある訳でもないのであるから早く死ぬ様な事があっても致し方がない訳である”
(昭和20年6月22日[土]曇天)
●“此んな日記を書いても三文の値打もないとは思ふけれ共長年の習慣でなかなか止められない 空襲で爆死する迄は書き綴るつもりである…(後略)”
(昭和20年6月26日[水]曇天)
●“(前略)陛下の御放送によれば日本が降伏せねばならなかった主なる理由は米空軍が使用した原子爆弾の威力が余りに強烈なるにあったといふ科学力の相違が日本を敗戦に導いたわけである 工場でも一同が呆然としているだけで仕事もなければ又手にもつかぬ有様であった 強制疎開ももう之で打切りであるが僅かな事で延びた我々は洵に幸福であるといふべきだ”
(昭和20年8月15日[木]晴天)
●“世の中はまったく変った 昨日黒かったものが今日は白いといふいやいはねねばならぬ 不本意千万であるが之も戦敗国なれば致方なしか 原子爆弾で都市人々の大半を殺しても人道に背かないが敵兵の捕虜をひどい取扱ひすると人道にそむくそうである そういふ勝手な事を言ふのが自由主義といふものであるに違いない 病院船と承知して爆撃する敵であるから何をいはんやである 昔から勝てば官軍敗ければ賊軍とはよくも言ったものである…(後略)”
(昭和20年9月19日[木]晴天)
●“(前略)松坂屋で工芸展をやっているので見物して来た 何うして製作したものであるか見当のつかぬ程巧妙に製造したものがある そうした品を見ると一寸苦しくなる 絵具屋であるから関係がない筈であるけれ共若し自分が陶工であったと思ふと到底ついて行くだけの力がないと思ふと辛いのである 暑い町を歩いたが敗戦都市の町といふものは実に涙である 一杯二円五十銭もする氷屋が列をならべている ヂープに乗った米兵が右側通行の注意をして廻っている 実にみじめな有様だ よくよくの事情のない限り都会へは出かけられない”
(昭和21年8月2日[金]晴天)
●“廿年の今日いよいよ敗戦と決った 陛下の放送があってやれやれ此の先どうなるかと思っていたのだが命だけは助かってまずまず安心一応残ったものだけは自分の所有になろうかと言ったような調子であった 食物の不足極端な金の価値の下落等々で三四年は血の汗を流さん許りであったのが朝鮮戦争のおかげとでもいふのか多少の金儲もあって大体表面だけは戦前の生活に近いようである 今日も一日試験室にいてウロウロしていた”(昭和29年8月15日[日]晴天)
●“寝床の中でケネディ前大統領の葬儀の模様をテレビで見る 宇宙なんとやらでアメリカの放送がアメリカと一緒に見られるとの事で便利なわけであるが余り鮮明には見えないから残念である 咳と痰が出るけれ共気持はそれ程悪くはないので起床をする ケネディ氏が死んでもアメリカに革命が起る訳でもないから日本の経済に大した影響もないであろうが夕刊で見ると株式が又安くなったようである 日本の経済の高度成長といふのもピークを越えたといふ事であろう”
(昭和38年11月25日[月]曇天)
●“作家の三島由紀夫氏は一昨日三、四人の若者と共に東京の自衛隊へおもむいてアジ演説をした上隊長の部屋で割腹自殺を果した 四十五才であったそうである 気の短いことをしたものである 作家の多くは自堕落な男であるにも不拘らずまるで古武士の様な作家は実にめづらしく大胆な人である 現代は残念ながら実力といふのか力によって社会改革を計る事はよくないといふのが大人の考へであるとすれば三島氏の日本の伝統回復保守的な考へ方には敬意を払ふけれ共方法としてはやや賛成は致しかねないのである 兎にあれ日本人にも立派な人もいるものと感心をするわけである”
(昭和45年11月27日[金]曇天)
●“毎日何をしたやらといった日常である 自分に一番適当な仕事はコソコソと掃除をする事であろうか庭の木の葉を拾ったりそれを燃やしたり 朝も八時起床で新聞を一とほり読むと九時である セレン赤の試験のやり直しを幾度も幾度もやるのでまるで子供の遊具みたいで考へると恥かしくなる 米国の大統領のフォードさんが昨日来た旨が新聞にデカデカと書かれている 日本は米国の恩恵がなければ独立もおぼつかぬ程資源も乏しいので米国旦那の御機嫌を取らねばならぬ訳だ”
(昭和49年11月20日[水]晴天)