【商品名】 幼児教育家・内山憲尚「自筆日記」五冊
【執筆年】 昭和2〜6年
【状態】 経年相応の劣化有
【備考・コメント】
内山憲尚(1899-1979)は、「巌谷小波らの影響を受け、口演童話・児童文化・幼児教育などに活躍。大正11年蘆谷蘆村の日本童話協会に参加、翌年創刊された『家庭子ども新聞』編集長をつとめた。戦後他界した蘆村の遺志を継いで日本童話協会を再建、『童話研究』を復刊し、昭和37年会長となる。この間、芝増上寺明徳学園主事となり仏教日曜学校運動を推進。」(日本アソシエーツ刊『児童文化人名事典』より)
著書に『仏教童話とその活用』『日本口演童話史』『人形劇と脚本-幼児と低学年』ほか多数。
本日記中の内山は昭和2年3月までは増上寺の明徳幼稚園主事、その後9カ月の浪人生活を経て昭和3年1月より東洋家政女学校教諭に就任。
日記はほぼ毎日欠かさず、一日一頁余白をほとんど残すことなくペンで認めている。
■ “今日は修了児のみの記念遠足で鶴見の花月園へ行くことになっている。いつもより早く出かける。九時すぎに幼稚園へついた。左眼が二重まぶたになって気持ちが悪い。それがために子供にも父兄たちにもろくろく話もせずについて行った。十一時に花月園について、食事をして二時に立って三時すぎに浜松町へ着いた、解散。帰園、舞踊の子供が来ていた。舞踊を教へる。四時に三輪君が来た。五時に鈴子が来た。築地小劇場へ三輪夫婦と鈴子の四人で桜の園を見に行く。あまり感心はしなかった。帰りに銀座で飯を喰って一時帰宅。”
(昭和2年3月12日記)
■ “朝から大変な雨だ。学校へ今日は洋服を着て行く。学校の授業は三十五分授業であるから楽だ。午前中に終る。午後二時半帰宅。夕方までに七枚程書いた。食事をすませてから続きを書く。早起会は経験が大阪時代に一度あった切りだからなかなか書けない。九時半ごろまでにこの節だけ書き終った。恰度四百七十枚だ。あと三十枚書けば五百枚になるのである。もう二三日中には書き上げられる。日誌を書いて、小波先生に手紙を書いて、十時すぎに床へ入った。”
(昭和4年9月5日記)
■ “朝から人形製作に追はれた。午後二時頃やっと紙人形だけを作り上げた。ギニョールの方は駄目だ。午後二時すぎに出かける。学校へ寄って蓄音器を借りた。仏教会館へ行く。人形製作から会場から舞台まで一人でやるのだから大変だ。午後六時半やっと準備をすませた。五十分開館。七八十名来てくれたのでうれしくなった。賀来君の舞踊レコード、蘆谷先生の講演、それから僕の人形芝居、終って畠野君の絵噺があって九時半頃に終った。日本大学へ寄る、終っていた。寿司屋でビールを一ぱいのんで帰宅。”
(昭和6年7月30日記)