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ホーム占領下の日本/米軍ある「傷痍軍人」の自筆日記・草稿一括 ☆吉田甸(大日向葵)■ 昭和21年1月1日〜昭29年8月24日
商品詳細

ある「傷痍軍人」の自筆日記・草稿一括 ☆吉田甸(大日向葵)■ 昭和21年1月1日〜昭29年8月24日

【商品名】 ある 「傷痍軍人」 の自筆日記・草稿一括
【執筆年】 昭和21年1月1日〜昭29年8月24日
【状態】 経年相応の劣化有
【備考・コメント】
■ 男の名は吉田甸 (おさむ) 、筆名は大日向葵。
大正12年京都市にて生れる。昭和18年12月、第七高等学校在学時に学徒動員で応召。昭和19年7月、サイパン島にて負傷、片腕を失い、米軍の捕虜となる。
昭和20年12月復員。昭和21年8月、 『新潮』 誌上に捕虜収容所での生活を描いた 「マッコイ病院」 を発表。昭和22年9月に同作が大日本雄弁会講談社から出版。昭和24年に小山書店より刊行された 『日本小説代表作全集』 15巻 (編集代表:川端康成) には、井伏鱒二 「追剥の話」 、尾崎一雄 「こほろぎ」 、稲垣足穂 「死の館にて」 等の作品と共に、昭和21年後半期を代表する11作品のうちの一つとして 「マッコイ病院」 が収録される。昭和28年の第44回サンデー毎日大衆文芸賞に 「ゲーテル物語」 が入選。昭和48年に本名名義で 「玉砕の島サイパンから生きて還る」 を上梓。
昭和26年頃より一時期は府中の米軍基地で通訳を務めていたようだ。

■ 日記は全部で5冊 (各B5判・計約260頁記入) 。うち1冊は 「夢日記」 (昭30年5月20日〜昭31年12月19日内、全28頁) 。通常の日記は昭21年2月6日〜昭23年11月13日の間を断続的に記録。
ある1冊の日記の表紙には 「魂の序曲」 と記している。尚、日記の一部は英文で認められている。
以下に日記の一部を抜粋する。

● “…松葉杖をついた人が子供の遊びを見ている。女の子の縄跳びを見ている。私にはその気持が良く分った。不具でなけらば分らない気持。子供の世界丈がそれを慰めて呉れるかも知れない。さう思って近付いて見た時、時として無残にもその幻が叩きつけられる事がある。私はそれを経験した。それ故今の私はその子供にまで近付き得ないでいる。…”
(昭21年4月13日)

● “…例の如く芝生に出て、二内科を横切り一内科に行く。特殊婦人科の標札の下にカーキー色のPOLICEと戯れている女性群 ― 闇の女である。薄汚い灰色の病衣を引きづって彼女らは笑っている。甲高い声だ。彼女等の眼は ― 笑っているのか? 否、空洞な瞳だ。自棄の眼差しだ。その奥には涙がある!あの秋の雨の様なたぎり落ちる涙が!然し彼女等の表情は笑ひであり歌声であり、乱舞である。彼女等をパンパンガールだ等と軽蔑して呼ぶ奴は誰だ!彼女等を欲するのは男ではなかったのか?…”
(昭21年9月19日)

● “午後、上野の図書館で九月十八日の時事新報より河盛先生の文芸時評を読む。終戦後一年なるに未だ作家は立ち直らず新人は出ない。然し、大日向葵のマッコイ病院は新人として見るべきものあり。筆力乏しく、たどたどしいが読後に與へるものがある。それは特殊な体験の所以ではなく (これは作者の畏れているところだが) 民族、国家を超えて、世界共通の人間の基本感情に立ち入っているからである。これは文学としては初歩の問題であるが、今までこの初歩の問題に生命をかけて取組んだものがあるだろうか。余りおろそかにしたからこそ、現代日本文学は貧困を招き非世界性となったのである云々。…”
(昭21年10月19日)

● “…色々彷徨を続けたけれどもやっと帰るべき所へ帰った様な気がする。私には矢張り残された仕事がある。編集長の言葉 「又サイパンか」 、これを恐れていたのだ。私は所謂小説家たらんとした。既に白紙ではなくて作家という色に染まりかけていたのだ。だがそれは間違ひだった。あのサイパン島で生き残った者は二千名居る筈だ。そしてその二千名丈けしかあの凄惨な生地獄を知らないのだ。勿論他の島々の人も万と云ふ数が居るだらう。然し自惚れでもなくて、私は矢張り私としての報告をかねて、あの生地獄を描破しなければならない。私は笑われても良い。ドンキホーテと云はれることに寧ろ喜びさえ感じよう。私は先づ私の義務を果さねばならない。既に思い出すままメモを取っているのだが、何分体の状態から長続きがしない。少し書いては休み、少し考えては休みの仕事だ。苦難は更に覚悟の上だ。私は一途完成に邁進しよう。サイパン、捕虜と生き抜いて来た様に…。学校へは最早行けない気がする。右手さへあれば昔と変りないと思っていたのが甘かった。私の運命はそんな甘いものではなかったのだ。が失望はしやしない。サイパン高等学校、捕虜大学の卒業生だから!?”
(昭22年7月18日)

■ 草稿は全部で20タイトル。概要は以下。

・ 『生きて還る』
(B4横判用紙281枚完揃、昭21年1月1日起稿・6月4日脱稿)
・ 『とろい』 (400字詰15完揃、昭21年記)
・ 『相模原』 (400字詰149枚完揃、昭22年記)
・ 『片足の子』 ( 400字詰12枚完揃、昭22年記)
・ 『放課後』 (400字詰12枚完揃、昭22年記)
・ 『二兵士』 (400字詰18枚完揃、昭25年記)
・ 『借金術』 (400字詰10枚完揃、昭25年記)
・ 『復讐』 (400字詰17枚完揃、昭25年記)
・ 『墓』 (400字詰11枚完揃、昭25年記)
・ 『禁煙綺譚』 (400字詰27枚完揃、昭25年記)
・ 『※タイトルなし』 (400字詰73枚完揃、昭25年頃記)
・ 『コント狂』 (400字詰7枚完揃、昭27年記)
・ 『日の丸の歌-日本独立の日に寄せて』
(400字詰1枚完、昭27年4月28日記)
・ 『学徒兵物語』 (400字詰48枚完揃、昭28年記)
・ 『ゲーテル物語』 (400字詰45枚完揃、昭28年記)
・ 『流星物語』 (400字詰258枚完揃、昭28年記)
・ 『通訳物語』 (400字詰43枚完揃、昭28年記)
・ 『精神病院』 (400字詰31枚完、昭28年記、※一枚欠?)
・ 『影』 (400字詰35枚完、昭29年記、※一枚欠?)
・ 『精二題-門晴哉の日記より』
(400字詰32枚完揃、執筆時期不明)

★ … 以上。戦争と占領下の影響を色濃く反映させた事柄を題材とした作品が多い。
以下は 『生きて還る』 の序全文。

● “これは捕虜生活の紹介でもなければ記録でもない。飽く迄僕自身の創作である。此の戦争を通し、捕虜生活を通して得た僕自身の表現である。想へば此の大戦争は日本にとっても流血の革命であったと同様に、僕自身にも身命を賭し、片腕を犠牲にした革命であった。多くの学徒兵と共に出陣した僕は不思議にも一人生き永らへて、今茲に此の書を書くことが出来た。煩悶し乍ら死んで行った学徒兵諸兄の、心情に、微細乍らも触るる所あらば、幸甚と思ふ。今尚米本国には、多くの捕虜の戦友が作業に従事している筈である。彼等の苦悩にもご理解賜ればこれにこした悦びはない。願はくば、今は無き戦友諸兄の、英霊安らかに眠らせ給へ。願はくば、在米の捕虜諸兄、一日も早く無事、生きて還られんことを! 1946年6月4日 焼け跡の東都にて 大日向葵”

■ 執筆者の吉田甸氏は作家として大成する事は叶わなかったかもしれない。しかし、いわゆる 「傷痍軍人」 として、その半生を過ごすことを余儀なくされた戦争の一犠牲者が遺したこれらの資料群は強いメッセージを発している。

★ 草稿類断片大きめの段ボール一箱分を付す。
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