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ホーム戦争の周辺石野径一郎自筆日記 10冊一括 ☆代表作: 『ひめゆりの塔』 ■ 昭和51〜56、58〜61年の10年間分
商品詳細

石野径一郎自筆日記 10冊一括 ☆代表作: 『ひめゆりの塔』 ■ 昭和51〜56、58〜61年の10年間分

【商品名】 石野径一郎自筆日記10冊一括
【状態】 経年相応の劣化あり
【備考・コメント】
★ 石野径一郎 (1909-1990)
小説家。本名・朝和。沖縄県生。法政大国文科卒。在学中同人雑誌に 『夢を写生する』 (昭7) を発表。昭和17年に長篇小説 『南島経営』 を出版。しかし石野径一郎の名前を一挙に江湖に知らしめた作品は、戦後発表された 『ひめゆりの塔』 (昭25) であろう。
爾来その死にいたるまで、彼は一貫して沖縄の独自性に固執するかたちで、本土の悪を、戦争の悪を、正統的なヒューマニズムの立場から告発しつづけてやまなかった。  
(明治書院刊 『日本現代文学大事典』 より)

■ 各A5判。昭和51〜56、58〜61年の10年間分。毎日のように記述する年もあれば、二、三日に一度の年も。
新聞記事の貼り込み多数。小田嶽夫が死去する三日前に石野に送った葉書貼り込み有。

● “もしも孫の代あたりまで残る日記があるとすれば1976年の日記あたりからか、と思ったりする。といってもその去年の日記はちゃんとかいたかというと見ての通り空白だの追記だのその空白を埋めて何かの雑記だのいやもうサンタンたるもの。だから頭陀袋の如きもの他人に見せて快きものではない。しかし私はそれを平気で見せるのが 「愛」 だとは考えている。だから私は日記をかくしたことはない。投げ出しておいてよみたい者がいたらどうぞという形をとる。しかし、といっても私の家には妻と一男一女とそのつれあいと孫の外だれが来よう。”

● “七月があわただしくやって来た。ぼくには 「あわただしく」 とのみうつるのだ。すべて原稿の執筆ののろさから来ている。六月一杯までにはゆっくり完成している筈だった原稿があと6、70枚残っている。しかし頑張るよりほか手はない。声援してくれるのはきみ子だけ。夫婦で孤独の道を-胸つき八丁を登る。いつしか人間嫌いにもなっちまったぼく。これでいい。 『人と戦争』 この一篇を完成して発表が出来ればあと何もいらぬ。”

● “銀座では昭和15年の 「紀元2600年式典」 以来の提灯行列が行はれた由。即ち 「天皇在住50年式典」 によるもの。銀座・上野間5、5キロのパレードには右翼の作家・山岡荘八。行列参加は約3万人だった由。戦時のことが思い出され不快の限り。”

● “この夜だが、実際の日付は5月6日午前4時過ぎの出来事である。きみ子が私の寝床 (ベッド) に立寄り、フトンをなおしにかかった。すると有ろうことかあるまいことか、私はきみ子を蹴り、又はなぐるという、暴力をふるっておそいかかったそうである。きみ子が私の机の方へ逃げて、ふるえ上がっているのを見て、私ははじめて目がさめ、悪夢を思い出そうとしたが、なかなか思い出せず、ひたすら恐縮、そして自分の知らない自分に慄然とする。異母弟ら友人のZ、K、K、そしてOやUや、A、Uにいたるまでが裏切り行為をする。もう誰も信じられないとの防衛心と脅迫観念が、私を狂わせたのだ。あア何たることか。四面に敵を持ったとの思いが、最も大事な味方におそいかかる!情けない、情けない!我狂いしか?”

● “俺の最大の欠点は名作小説を殆どよまずに過して来たこと。”

● “桜桃忌 彼と彼女が玉川上水の上流で見つかったのは奇しくも誕生日の昭和23年のこの日。三鷹市の禅林寺で法要が営まれる。短篇 『桜桃』 で彼は 「子供より親が大事」 と繰返しているという。そうは思わない私であるが、よんでみたい。最近の調査では 「子供のために親がギセイになるは当然と思うか」 との問いに 「ノー」 が53%だときく。太宰文学も時がたつと斜陽化するのだろうか。”

● “東海林太郎が 「赤城の子守唄」 や 「国境の町」 で直立不動でスターになったのは昭和9年、ぼくが 「作家群」 の同人に入った年で、翌々年に結婚した。彼の唄はぼくらの伴奏曲となったような思い出がある。8月の6日、9日、15日。何の日か。忘れまいぞ。”
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